ストロボみたいに

ミルクティー のめません

日記② きみはにせもの

目覚めてすぐ、チョコバナナ作りに取りかかった。チョコバナナは一度作ったことがある。チョコ溶かしてバナナに割り箸刺してデコるだけだろ、なんて考えていたら意外と難しくて、もう散々な結果になったのだ。でも味だけはチョコバナナ。だってチョコバナナはチョコとバナナでできている。だけど、なんかちがう。見た目が違うのもあるけど、そうじゃない何か。

ときめきが足りないのだ。あの、夏祭りの屋台で買う、沢山並んだいくつものそれらから、たった一つを選び抜くとき。屋台の人から手渡される、あの瞬間。あれ。あれがないのだ。

屋台で食べる物って別に家でも作れる。たこ焼きも、焼きそばも、かき氷も。でもやっぱりあれはあそこで食べるから良いのだ。たっけぇ金を払って、「屋台って高いよね」とか言いながら食べるのがいいのだ。

夏祭りの景品は家に持って帰ると途端に色を無くしたように見える。焼きそばとか特にそう。はしまきはまだなんか、家じゃ作らないから夏祭りマジックかかってるけど、焼きそばとか本当にパックにギチギチに詰められて、冷たくなったただの焼きそばだ。元気がなくなったように見える。陸に打ち上げられてしまった魚のように。こやつらの居場所はたぶんあの屋台だったのだ。

みたいなことを考える。けど、りんご飴は絶対に家で食べる。あれは食べるのが本当に難しい。人前で食べれない。まじ凶器かよってくらい硬い飴に全力で齧りにかかる様はなかなか事故画だし、途中絶対林檎の重さに割り箸が悲鳴をあげるからこぼれおちるし。りんご飴って食べるのにすごく悪戦苦闘する。大好きなんだけど。あばたもえくぼ、的な感じでそこもすき。

そんなふうに夏に思いを馳せて作ったチョコバナナはやっぱり惨敗だった。まあでも、なんで失敗するのかは分かった。湯煎でチョコを溶かしているといつの間にかどんどん固まっていって、すげぇボソボソしだして、「なんで!?溶かしてるのになぜ!?」と思っていたけど、「火が通ってるんだ!」って気づいた。なるほど、敗因はこれである。ショコラティエの人って凄いな。チョコバナナですらこんなに時間との戦いなのに、あんな繊細なチョコレート、1℃単位で恐ろしく変わってくるんだろうな、すごいな、大変だな、感謝だなあと思いながら巨大なチョコの塊を食べた。うん、確かに焼きチョコのあじがする。めちゃくちゃ美味しい。Ghanaミルクチョコレートはどんな形になってもおいしい。あと、割り箸を刺してからチョコに漬けるのではなく、割り箸はチョコをかけたあとに刺すのだ、と分かった。そうして完成した三つのうち、最初に作った一つだけがまあまあそれっぽくなった。前回より成功率は上がっている。また作ろう、と思った。

ハンドメイドのチョコバナナはやっぱりめちゃくちゃ美味しかった。うん、チョコバナナだ。チョコバナナってやっぱりめちゃくちゃ美味しい。でもそう、やっぱり、なんかちがう。足りないのだ。

それは、ときめき。

夏、夏祭り、夕暮れ時から夜にかけて、人混み、浴衣、下駄の音、ざわめき、ぼんやりと明るい屋台の灯り、カラフルなヨーヨー、お面、スーパーボールが浮かぶ小さなプール、子ども、大人、老人、若者、中学生、わくわく、この日のためにという気持ち、明日からまたという憂鬱、今だけはという願いにも似た忘却と逃避行、夏の夢

以前、チョコバナナを作った時に『にせものチョコバナナ』という唄を書いた。あれと全く同じ感覚。今も変わらず私は夏に恋をしている。

コロナとか精神的な問題とかでもう四年、夏祭りに行けてない。今年の夏こそは、夢を叶えたい。

何かを好きになった時のことって、ずっと覚えてる。チョコバナナを初めて食べた時のことを、私はとてもよく覚えている。うちは貧乏だったから、屋台の中からたった一つ、何か選んでいいよって母に言われて、私は迷わずチョコバナナを選んだ。だって可愛かったから。私は店主に小銭を渡して、これがいい、とその中から指名した。じゃんけんに買ったら二本いいよ、って言われたから私はじゃんけん勝負に挑んだ。勝てると思ってなかったから勝てたのが嬉しかった。もう一つは弟にあげた。

あの時のことを、私はとてもよく覚えている。チョコバナナはもちろん美味しかったけど、私はチョコバナナに纏わるその思い出が、きっと好きなのだ。ときめきなのだ。永遠の。永遠に。家族で過ごしたあの瞬間のことが、きっと、いつまでも。

だから私は、また、ときめきに会いたくてきみをつくる。にせものの、きみをつくる。二度と会えないきみに思いを馳せて、何度も、何度も。恋心を、つくるのだ。